■ これからの地方政府を考える更新日:2010.7.1

 将来の地方政府について今回は少し考えてみたい。そう考えたのも、先日、ある会合で総務省官僚の方が、臨時財政特例債を導入した趣旨に間違いはないと発言したことからである。
 臨時財政特例債とは平成13年から導入され始めた地方債で、本来、国の責任において地方に交付すべき地方交付税の一部を、地方に起債させて穴埋めさせるという制度である。国がそれまでは赤字国債を発行して地方交付税として地方に交付していたものを、赤字国債発行をやめる代わりに、地方自らに地方債を発行させて充当させるというものである。

 当然、導入に当たって、地方は猛反発することとなる。本来、地方交付税には財源保障機能があり、あくまでも国が定めた基準に基づいて、不足する額を国が交付税として交付することが謳われており、それを地方に押し付けるのは国の責任放棄だというわけである。(ちなみに、地方財政特例債は後年度において、発行額100%が交付税措置されるとされているが、このことをもって、国の明確な責任があるとは誰も反論しないであろう)

 しかし、敢えてここで、先ほどの官僚の方の発言を考えてみたい。というのも、この制度が始まる以前、財政再建が叫ばれる折、地方の財政担当者は誰でも地方交付税が足りず、国では国債を発行し、交付税総額を確保していた状況を知っていたのである。このような財政危機を招いたのは国自らの責任とは言え、自分たち地方政府に配分される交付税の原資は、将来からの借金であるとは知っていたのである。しかし、そのリアリティがなかったのは、不足額を国が代わって国債を発行し、地方自らが起債を起こしていなかったというところにある。

 つまり、皮肉的に言えば、この制度の導入があったからこそ、地方も真剣に、地方における総額確保のための起債について考えることが出来たのではないだろうか。もちろん、国のように赤字国債を発行できない地方にとって、それまでの財政削減、無駄の削減、人件費の大幅カットなどのさまざまな努力は、国の比ではない。そのような中、国はそうした努力もせず、いきなり地方にも責任を共有してもらうかのごとく、このようなシステムを導入したことに地方は到底納得できるわけではない。そのことは、当然主張しなければならないが、である。

 さて、今回のテーマである地方政府のあり方、今後のふさわしいあり方について考えてみたい。というのも、地方議会においてこういった議論がなかなかされていない現状があるからである。国の制度や仕組みが変わることによって、地方にはさまざまな制度変更が必要になり、その時々において、色々な議論が沸き起こる。しかしながら、それは、あくまでも地方が国に巻き込まれているだけであって、地方自らが判断し、そのことについて議論しているものではないのである。最近における高等学校の無償化や、子ども手当の導入、さらには昨年における定額給付金制度の導入や、もう少し大きな視点で考えれば、介護保険制度の導入やそれにかかわる事務作業などである。

 それぞれの制度導入時において地方議会でも大いに議論が沸き起こる。さらにそれを滑稽にしているのは、地方議員自らが所属している政党やグループの主張にのっとって議論している点である。

 本来、しっかり議論しなければならないのは「子ども手当ての是非」、「定額給付金制度の是非」や「介護保険制度(都道府県ごとに広域連合を作って行うことなど)導入の是非」なのである。子ども手当ては民主党の政策だから、民主党議員は賛成し、定額給付金制度は自民・公明の政策だから、自民・公明党議員は賛成するということが自体を滑稽にしている。なぜなら、それら導入に当たって地方議員にはほとんどが何ら相談がない。全く一方的に国主導で決められているのである。

誤解を恐れずに言えば、(仮に理念の差はあったとしても)「バラまきだ」といって「定額給付金制度」を反対した民主党地方議員は、「子ども手当て制度」にも反対すべきではないのか。もちろんこれは自民党地方議員にも言える。前原大臣が志木駅前の街頭で「子ども手当てがばら撒きだ、などということは、定額給付金を配った自民・公明だけには言われたくない」と言っていたが、それでは同じ土俵だと認めてしまうことに等しい。

いずれにしても地方議員は、そのような国の政策には何ら関与していない。ならば政党派を超えて、しっかりと議論したほうがよい。それが本論の主張である。三位一体の改革でどれほど地方は疲弊したか、障害者自立支援法の制定やその後の度重なる(細部を含む)改定、そして、今後の廃止と、地方はどれだけ右往左往させられているか、このような事例は枚挙に暇がない。否、すべての政策にそのようなケースがあるといっても過言ではない。

そもそも今後、政党の思惑に惑わされることなく、地方は地方として、政党派の垣根を乗り越えて、まずはしっかりと自分たちの役割を認識する必要がある。国と違い、地方は直接自ら身近なところで住民と接する。住民一人一人と接する地方においては、まずは最低限のサービス基準をしっかりと定める必要があるのではないか。そして、それにおいては政権交代が起きようと、しっかりと国の責任において、守られなければならないサービスなのである。そしてもちろん、地域地域によって地域の実情に応じて、それ以上のサービス、上出しや、横出しを含めて、地方独自の責任とサービスで行っていくのが相応しいのではないだろうか。

先日参加した地方財政を扱う議論において、いくつかの提言がなされていた。それによれば、最低限のサービス(ナショナルミニマム)を国民との対話で定め、その部分の経費については地方交付金等で一律に交付し、それ以外は地方交付税等で対応していくというものである。まさにそういった姿になっていくことが望ましいと考える。

今までの地方政府のお金の出入りを、少し整理して考えてみたい。まず、歳出が先にある。そして、それに対応するのが地方税で、足りない部分を財政移転(地方財政特例債などを含む交付税)で賄うという構図である。しかし、これからはこうではいけない。

新しいモデルとしては、まず歳出がある。そして、それに対応させるのは、ナショナルミニマムに対応する財政移転であり、そして、足りない部分を地方税で賄うという仕組みにしなければならない。

(旧来型モデル  ) 歳出 − 地方税  =(足りない部分)財政移転
(こらからのモデル) 歳出 − 財政移転 =(足りない部分)地方税

これにより、地方独自の自治意識や、まさに自立ということも意識として芽生えるのではないだろうか。

そして、この構図の中で大切なことは、ナショナルミニマムを決めるのは、国民との対話である、ということである。しっかりと議論し、生活する上での最低限のサービス水準を決定しなければならない。北海道大学教授の宮本太郎氏の著書によれば、日本人の意識として小さな政府よりも比較的大きな政府を望むという見解が出されていたが、まさにそのサービス水準をしっかりと定めることが重要である。どこまでのサービスが良識的なサービスか、国民的議論を行う必要があろう。

さて、最後に、これからの地方政府を考える上での一番の障害は無意味な政党観や国家観であると考えている。誤解することなかれ、もちろん、国家観で言えば、国家に対する最低限の考え方や、その根底の思想や歴史観など、そういったことを否定しているわけでない。逆の言い方をすれば、当然そういった認識は最低限必要なことである。しかし、ここで強く主張したいことは、未だに「地方自治(地方政治)は民主主義の学校」的な発想が相当あり、地方政府のあり方に関する議論を、もっとしっかりとなされるべきだということである。アカデミックな場所は別として、議員間やマスコミ等々でのこの種の議論はほとんど聴いたことがない。

 これからの地方のあるべき姿について、しっかりと議論を深めてゆきたい。





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